短い旬を終えた薄紅の花が散れば、どこか浮ついた年度初めの空気は消え、代わり映えのない日常とやらが辺りを支配し始める。
季節に関係なく浮ついた客の集うスナック・お頭裸もそれは例外ではないらしく、このところめっきり客足が落ちたとズラ子が嘆く。
「花見気分も一段落で、来るのはしけたツラの常連どもばかりだ。何かイベントでも打って、ひと盛り上がりしたいところなのだが」
「イベントねェ……例えば?」
他に客がいないのをいいことに、行儀悪く化粧直しなどしている恋人に、カウンターで猪口を傾けながら晋助が問うた。
口紅を片手に、ズラ子はふむと軽く首を捻る。
「新装開店イベントなんかどうだ? パチンコ屋でもよくやっているであろう」
「どこを改装するンだよ。ここにゃ新台なんてねェぞ?」
「どうせハナから口実なのだ、何でもよかろう。そうだな……」
ぐるりと店内を見渡したズラ子が、壁の一角に目を留めた。
「そうだ、あそこに絵でも掛けてみるのはどうだ? 前から少々殺風景に思っていたのだ」
「絵?」
「うむ。ほれ、乾物屋の若旦那、あれが絵を描くのが趣味らしくてな。前から何か置かせてくれと言われていたのだ。大きめの絵でも借りて飾れば、多少雰囲気も変わるだろう」
お頭裸の常連の中でも比較的若い部類に入るその男のことは、晋助もよく知っている。若いと言っても四十代半ばで配偶者もいる身だが、ズラ子のことは気に入っているらしく、店に来てはズラちゃんズラちゃんと機嫌良く絡んでいるのをたまに見かけることがある。
所詮は客だ。ズラ子も適当にあしらっているようだし、晋助が妬くようなことは何もない。
……とはいえ、余所の男の絵がこの店を飾るとなれば、話は別だろう。正直、面白くない。
ガタン、と黙って立ち上がると、晋助はズラ子の手の中にある口紅を少々乱暴に取り上げた。目を丸くするズラ子の視線を背中に受けながら、ずかずかと殺風景な壁の前に歩いて行く。そして。
白い壁に、躊躇いもなく、口紅の先を滑らせた。殴るように大書したのは「万紫千紅」の四文字。多彩な花が咲き乱れる様を表す語ではあるが、「万紫」の字に自分の存在を込めたことは、見る人が見れば分かるかもしれない。
ズラ子はそれを、最初は驚いたように眺めていた。が、フンと晋助が口紅を投げて返すのを受け取ると、クスリと口元に笑みを浮かべる。
「随分大胆な改装だな」
「悪かねェだろ?」
「ああ、華やかになった」
カウンターから出てきたズラ子が、おもむろに壁の文字に唇を押し当てた。同じ口紅で付けられたキスマーク。文字の傍を花弁のように舞うそれを指で辿ると、満足そうに微笑む。
「よし、改装記念に枡でも作るか」
「いいンじゃねェか? 派手に樽酒でも開けてさ」
「悪くないな」
独占欲は悪いものではない。互いが互いに対して、同じくらいの分量のそれを持ち合わせているのなら。
クスクスと笑う恋人の細い腰を抱き寄せると、店を新たに彩ることとなった鮮やかな紅を分け与えられるべく、晋助は柔らかな唇に己のそれをしっとりと重ねた。