――ずっと探していた。
いつも何かが足りなくて、どこか欠けている様な気がして。
でも、物心付く頃には一人だった俺にはそれが一体何なのか分かる筈も無く。
だから、最初は気付かなかった。
それが答えに繋がる運命の出逢いだったとは。
その夜、江戸には季節外れの大型台風が近付いていたせいで、週末の10時前にも関わらず客足はすっかり途絶えてしまっていた。交通機関の乱れも出始めていた為、スナックお裸頭の女将ズラ子は早々に従業員を帰し、一人店閉まいを始めていた。段々と激しくなる雨粒が店の窓を割れんばかりに叩き、未明に掛けてピークを迎える予報から、嵐の勢力が相当のものだと言う事を物語っている。
暫くして、雨音に混じりガタンッと戸口に何かがぶつかるのが聞こえ、ズラ子は確認の為に解錠し引き戸を開けた。瞬間、止める間もなく吹き荒ぶ雨風と共にずぶ濡れのスーツの男が目の前に倒れ込んで来た。
「どうされた?大丈夫か?」
濡れた男の冷たい体を咄嗟に支えながら、ふと触れた一部が生暖かい事に気付き、自身の掌を見て驚愕する。そこはべっとりと真っ赤な血で染まり、ズラ子の着物の袖口までも汚していた。
「御仁、どうされた。怪我をしているのか?今、救急車を…」
しかし、男はズラ子の腕を掴む手に力を込め頭を左右に振る。
「…大、丈夫だ…こいつは大した傷じゃねぇ。だが…すまねぇが、ちょっとだけ休ませてくれ“兄ちゃん”」
「これは大丈夫のレベルではないぞ、フラフラではないか。」
「直ぐ、出ていくか…ら、誰にも…」
「…しょうがない奴だな。わかった。では、何よりも先ず止血をせねば。」
ズラ子は戸を閉め施錠し、男の腕を自身の肩に回して店内のソファ迄連れて行き一旦そこへ座らせる。
「おい、ここ、濡れるぜ…」
「構わん。それよりそこを動くな。今、救急箱を取ってくる。」
そう言って店の奥へ消えた長い黒髪の後ろ姿を、男は朦朧とする意識の中で見つめていた。
数分後ズラ子が戻って来た時には、男は眉間に皺を寄せながら座したまま意識を落としてしまっていた。
先程は長い前髪で気付かなかったが、眠るその顔には左眼を覆う様に包帯が巻かれている。
閉じられた右眼の長い睫毛は頬に影を作り、美しい鼻梁と形の良い薄い唇から成る顔立ちは、この男が世に言う“イケメン”という部類に入るのは間違いないのであろう。
今迄他人の風貌など気にも止めた事の無かったズラ子が、この時初めて眼前の見ず知らずの男に、一瞬動きが止まってしまう程見蕩れてしまっていた。
「い、色男が台無しだな。」
自分でもよく分からない感情を打ち消す様に急いで男の濡れたジャケットを脱がし始めると、冷たかった筈の身体が熱を持ち始めている事に気付く。乾きかけていた額の包帯にもじんわりと汗が滲み、明らかに先程よりも息が荒くなっている。
(熱が上がり始めているのか。腕の傷は…こいつの言った通り出血の割には浅い様だな。)
ズラ子は簡単な傷の手当てをした後、意識の無い男の濡れた衣服を全部脱がし、代わりに身体を毛布で包んで背におぶさった。
(見た目通り軽いな…。ちゃんと食べていないのか。目が覚めたらとりあえず精のつくものを食べさせてやらんとな。)
初対面の人間の要らぬ心配をしてしまっている事にふと気付き、ズラ子は先程から妙な焦りを感じていた。
すると突然、店の戸を激しく叩く音と共に男達の怒号が聞こえて来る。
「おい、開けろ!ここに男が来てるだろ!」
ズラ子は背中で気を失っている男の追っ手だと直ぐに察し、急いで厨房の奥まった場所の2階へ通じる隠し扉を開ける。そこへ包帯の男を降ろし階段へ座らせると戸を閉め可動式の棚で隠した。それから、カウンター下のゴミ箱からビニール袋に入った生ゴミをひとつ手に取り店の戸口へ向かう。応答の無い店内へ苛立ちを募らせた外の男達は、木戸をガンガンと蹴破る勢いだ。
「いい加減にしろ、戸が壊れるではないか。今ここを開けるから蹴るのを止めてくれ。」
ガチャガチャと解錠した瞬間、乱暴に戸が開けられ二人のガラの悪いチンピラが店内へ押し入ってきた。
「見ての通り今夜はもう店じまいだ。おい、聞いてるのか。」
男達はズラ子を押し退け、掛ける声も意に返さず狭い店内をそこかしこと探し回る。カウンター裏、トイレ、ソファの陰等、狭い店内は探す場所も限られ、二人は直ぐにズラ子の元へ詰め寄って来た。
「店の外に血の跡があった。この店に来たのは間違いない。姉ちゃん、包帯を顔に巻いた野郎は何処だ。庇ったところでアンタに良い事なんて一つも無いぜ。」
ズラ子は軽く溜息を吐く。
「…そんな人間など知らん。お前達こそ何だ。人の話も聞かないで泥だらけの靴で店内を汚し周りよって。用が済んだなら出て行ってくれ。」
「威勢の良いのも今だけだ。正直に話さないとアンタも…。」
チンピラの一人が薄ら血の付いたナイフをチラつかせるもズラ子は顔色一つ変える事は無く、むしろ手にした生ゴミを二人の目の前にずいっと差し出す。
「あのな、店の前にあった血痕は十中八九これだ。」
ズラ子の手には魚の内蔵が詰め込まれたビニール袋が握られ、それを目の前にした男達は顔を歪め思わず後ずさりする。
「昨夜馴染みの客から大量の秋刀魚を頂いてな。この風でゴミ箱がひっくり返り、捌いた秋刀魚の内蔵を店の前にぶちまけてしまったのだ。つい、さっきの事だ。」
俄には信じ難いという顔つきで男の一人がズラ子を頭からつま先迄見遣り、今一度店内へ視線を送る。
「本当に来てないんだな。」
「見ての通りだ。何処にも居なかっただろう。しかし何だ。お前達は血の跡を辿って来たとなると、追っている者は怪我を負っているのではないか?」
チラッと男の手にしたナイフを見てズラ子の瞳は険しくなる。
「うちは堅気の居酒屋だからな。警察に犯罪を通報する義務が有るのだが、お前達の持っているナイフの汚れが誰かを傷付けたものだすると…。」
「ああ?ワシらを脅す気か姉ちゃん。」
「姉ちゃんじゃない。ズラ子だ。」
凄まれても眉一つ動かさない女将に、男達はこれ以上ここでの追求は無意味で更には自分達にとって不利に成りかねないと、捜索を断念し渋々出て行った。
「全く、床をびしゃびしゃにしおって。」
ズラ子はカウンター下にゴミを戻し、代わりに手に取った塩を一つかみして土砂降りの店先へ投げ捨てた。
翌朝、江戸の空は台風一過でスッキリと晴れ渡り、雲一つ無い秋晴れとなった。気温はぐんぐんと上がり、この時期にしては汗ばむ程の陽気になっている。
ズラ子は布団で寝かせている男の様子を見ながら、午前中には店内の清掃を済ませ昼食作りに取り掛かかっていた。
程なくして鰹節の良い香りが寝所にも届き、眠りから覚めた男の腹を鳴らした。掛けられた布団を体から退かし、鋭い視線で辺りを見渡す男は記憶を辿りながらゆっくりと身を起こす。
物音のする厨房の方を覗くと、家の主らしき者が食事の準備をしているのが見えた。白地に赤い紅葉を散らした小紋に襷がけをし鼻歌交じりに忙しなく動くその姿を、男は何故だか暫くぼうっと眺めていた。
「うむ、出汁がよく効いているな。」
独り言を言いながら微笑むその横顔と仕草が男にはとても眩しく見え、不思議と張り詰めていた緊張も緩んでいた。
ズラ子が背後の気配に振り向くと、男の視線と正面からぶつかり思わず手にした丼を落としそうになる。
「あ、えーっと、うどんは一番消化が良くてな、直ぐにエネルギー変換出来るから、体力が落ちてる時には一番良いのだ。それに貴殿は少し細すぎる。肋は出てるし、おぶさった時には童の様に軽かったぞ。もっと普段から食べた方が良い。」
明らかに男の呆気に取られる表情が見て取れズラ子は一瞬頭の中が真っ白になり、直後羞恥にみるみる顔が熱くなる。昨夜は雨で濡れた男を清めながら身体の隅々まで見た筈なのに、柱にもたれかけ腕を組み、ただじっと切れ長の隻眼で見つめられただけで冷静でいられなくなった。
「……飯。」
「あ、ああ、直ぐに用意して持って行く。部屋で待っていてくれ。」
特段会話も無く食事を済ませると、男は直ぐに帰り支度を始める。
「世話になったな。スーツは処分してくれ。済まねぇが借りた着流しの代わりにこれを置いていく。」
渡されそうになった金をズラ子は受け取ろうとはしなかった。
「新品でもないし、そんなものはいらん。それより体は大丈夫なのか、もう少しゆっくり休んでいっても俺は構わないぞ。」
「長居すれば迷惑がかかる。」
「迷惑などと…だったら昨夜の段階で放り出してる。それに、まだ、その、お前の名を聞いていない。差支えなければ教えてくれないか。」
その言葉に男の目が揺らぎ暫く二人の間に沈黙が流れる。
「…知ったところでもう会うこともねぇし。」
男の一言にズラ子の胸がチクリとする。
「あ、いや、俺は別に犯罪者じゃねぇけどよ。ちとばかし危ねぇ仕事に携わる事も多い。万が一俺の名を知ったばかりに、恩人の兄ちゃんを危険な目に遭わせたくはないからな。」
「これでも俺は免許皆伝の腕前だ。心配には及ばん。」
「客商売だしな。店への影響もあるだろう。」
意地でも名を教える気のない態度を取る男に、ズラ子は何故だか胸の奥が締め付けられる様な寂しさに唇を噛む。
少し間が空き男が何かを言いかけた時、ズラ子の右手指は男の左の袖口を掴んでいた。
「…何で分かった?」
「何がだ?」
「初めてなんだ。俺を初対面で男だと認識した人間は。」
「…ああ、そんな事か。あんたは美人だが女の匂いはしねぇ。むしろ、その辺の見てくれだけの野郎よりよっぽど芯が強くて男らしい。」
その言葉を耳にした瞬間、ズラ子の心ににぽうっと小さな火が灯り、ゆらゆらと広がり始める。
「やはり、名を知りたい。このまま二度と会えなくなるのは嫌だ。」
ズラ子は無意識に袖をグイグイ引いている自分に驚く。
仕事柄や風貌について女扱いされるのは常で、言い寄って来る男も星の数程居るが、今迄一度たりとも自ら相手を求めた事など無かった。寧ろ客商売でなければ相手にするのも億劫だと感じていた位だ。
だが、今はどうだ。あろう事か目の前から居なくなろうとしている会って間もない男を必死で引き止めようとしている。
おかしい。
どうかしている。
そんな考えさえも凌駕してしまう程の焦りがズラ子を衝動的に動かしていた。
しかしそんな必死の想いも虚しく、男は目も合わせず引かれた指を右手でそっと外した。そして黙ったままテーブルに金だけを置いて振り向くことも無く呆気なく出て行ってしまった。
ズラ子は結局何か言いたくても最後まで言葉にする事ができず、ただ背中を見送るだけでその場を動けずにいた。
この時はただ、ちりちりと胸を焦がす未知の感情に戸惑い、頬を伝う一筋の涙を拭う事だけがズラ子に出来るせいいっぱいだった。
季節は巡り、あれから丁度一年が経とうとしていた秋の日、ズラ子は2階の空き部屋に大の字に寝転がっていた。
数日前突然やって来たミュージャン風の男から、この部屋を事務所として借り入れたいとの申し出があった。長年使っていなかった部屋は埃と湿気がこもっていた為、入居の日まで窓を開け放ち空気の入れ替えをするのがここ最近の日課となっている。
窓から見える羊雲がゆっくりと流れる様を見ていたズラ子は、寝不足も相まってか心地よい陽気の中でついウトウトしてしまった。
夢とも現とも分からないふわふわした意識の中で、何故だかずっと会いたかった人物が隣にいる様な気がしてズラ子は笑みを零す。
「やっとだな。あれだけ夢でいいから会いたいと思っていたのに、お前はちっとも現れてはくれなくて。だがようやく会いに来てくれたんだな…。嬉しいぞ。嬉しいが名を教えてくれなかったから呼ぶことは出来ないが。」
「………。」
「ふふふ、何を言っている。それはこの部屋に入る事務所の社長の名ではないか。まぁ、いい。今は会いに来てくれただけで満足だ。」
そう言ってズラ子は男の胸に顔を埋め、猫の様に頬をすり寄せた。
とくん、とくんと小気味よい心音が耳朶を震わせズラ子は満ち足りた気分になる。
「こうしていると、俺とお前は同じ心臓を共有する一人の人間になった様ではないか…。ずっとこうして居たい…。また必ず会いに来てくれ。この時ばかりは、お前を独り占めできる。」
「女将。」
「ああ、やっぱり声も良い。低いが艶が有ってよく通る。」
「女将。」
「女将じゃない、ズラ子だ。名を、お前の声で名を呼ばれたい。」
「…ズラ子。」
「ふふ、もう一回。」
「ズラ子。」
「何だ。」
「好きだ。」
「俺もだぞ。やっと分かったんだ。あの日どうやらお前に一目惚れというやつをしてしまったらしい。今迄一日たりとて忘れる事は無かったのだからな……ん?」
肩に回された腕から伝わる体温の感覚がじわりと上がった気がして、霧が晴れる様に意識が覚醒していく。
(んん?これは本当に夢…なのか?)
その時、身体を力強く抱き締められたズラ子は完全に我に返り、小さく震える。
(まさか。いや、でも。)
鼻腔に届く仄かな煙管の匂いとあの日触れた温もりを確信する。
間違いない。会いたくて胸を焦がし続けたあの男。
「ズラ子。」
名を呼ばれると同時に顎を掬われ、熱い口付けを享受する。
「ん…んう…」
貪るようなキスにズラ子は必死に応えながらも、もしかしてこれはまだ夢をみているのではと錯覚を起こしかける。
「夢じゃないぜ。」
唇が離れて涙で濡れた目尻を指で拭われた後、ズラ子はその眼でしっかりと男の顔を確認した。
「俺もあんたに一目惚れだった。ただ、あん時はかなり危ない仕事ばかりやってたし、それであんた…ズラ子の生活を乱したくはなかった。一時は忘れようともしたんだが、駄目だった。俺のもんにしてぇという欲が上回っちまった。それに…」
「それに?」
「もう一度ズラ子のうどんが食いたかった。」
夢にまで見た晋助の零れる笑顔に、ズラ子の瞳は涙で溢れた。
見つめ合い今一度唇を重ねる二人を、柔らかな秋の陽射しがキラキラと優しく包み込む。
――そして答えはここに有った。
俺達に足りなかったのは運命の片割れである互いの存在。
未完成な二人は一つに成るべくして必然的に出逢ったのだ。
だから、もう二度とその手を振り解く事はしない。
Your other half
<あなたは私の運命の人>