「チッ......」
盛大に舌打ちをしてみても、その音は誰も居ないがらんとした部屋に虚しく木霊するだけ。
完全に見飽きてしまった天井の木目を見つめながら、晋助はもう一度大きく舌打ちをした――
ここはかぶき町で商売を営む「万事屋晋ちゃん」の、とある部屋。
事務所兼住居であり、社長兼家主でもある高杉晋助は、寝床として使っている六畳間の和室にいた。
いや、正しくは......寝かされていた。
思えば、あれも巧妙に仕掛けられた罠だったのだと今更ながらに気付く。
月に三件、多くても五件の依頼があれば大盛況の万事屋に、先月から立て続けに数件の依頼が舞い込んだ。
万事屋晋ちゃんが受ける依頼は一言で言えば「危ない仕事」。その為、晋助は従業員個人単位での行動を基本的に認めていない。最低でも二人、依頼内容によっては従業員総出で一つの依頼をこなすことも珍しいことでは無い。
だが、混み入った依頼の所為で今回は特別。晋助は一人で現場へ向かわざるを得なくなってしまった。それが最大の罠であるとも知らずに......
事前に掴んでいた、否、掴まされていた情報は全くのガセ。ものの数分で終わるであろう現場を選んで出向いたはずの晋助を迎えたのは、聞いていた人数の何倍もの荒くれ者達。
だが、ここは万事屋晋ちゃん。江戸の闇の万事を司るもの。
木刀片手に難なく俊敏に、ならず者達を始末していった晋助だったが、最後に残った者の悪あがきか、晋助の肉体に撃ち込められたのは数発の鉛の弾。
両足、そして左肩を貫通していった銃弾によって晋助はその場に倒れ込んでしまった。
ドクドクと心臓が鼓動を打つたびに、晋助は赤い海に沈んでゆく。
今、晋助のまわりには伸びてしまった者しか居ないが、いつ追手が来るかも分からないし、ソイツらとやり合うことは今の晋助には到底不可能。
武市やまた子を向かわせた現場はここから随分と遠い。晋助の異変に気付いて、ここへやって来てくれたとしても、これだけの量の出血である。
その時まで持ちこたえる自信は......正直あまり無い。今まで何度となく修羅場を潜り抜けてきたが今回はさすがにしくじったと、晋介は乾いた笑いをこぼす。
――万事屋晋ちゃん、これにてお開き――
痛みをこらえて、なんとか仰向けに寝返った晋助は、夜空に浮かぶ月を見ながら、そんな事を思う。
頬を撫でてゆく風はどこかひんやりと冷たく、蒸した風を忌々しく感じていた夏夜は、もう随分と前のことだったのだと今頃になって気付く。
ぼんやりと眩んでゆく視界の中、月からの使者を待つ晋助を迎えに来たのは......
「晋助、昼飯を持ってきてやったぞぉ!」
雅も風流も、色気も素っ気も無い、何とも能天気な声のかぐや姫――
***
「うるせェ。ちっとは静かにしろ」
「む、なんだ晋助。まだ寝ておったか」
「一人で厠へ行っただけでも、ぎゃあぎゃあ喚きやがった馬鹿はドコのドイツだ」
あの日。意識を失いかけた晋助を万事屋まで連れて帰ってきたのは、今目の前で晋助を見下ろし、食事をのせた盆を持つ魅惑の美人。
「馬鹿じゃない、ズラ子だ」
虫の知らせか、それともたまたま通りかかっただけなのか。理由など聞いてはいないが、銃弾に倒れた晋助の目の前に突然現れたズラ子は、その艶やかな着物が血に染まることもいとわずに、肩にしっかりと晋助を担ぎ、闇夜に紛れて万事屋への道を急いだ。
幸い銃弾は神経をかすめておらず、晋助はなんとか一命を取り留めた。
そして、絶対安静!という医者の言葉通り、晋助はこの一週間寝床に縛り付けられているのである。医者よりも口煩い目の前の馬鹿によって......
「今日はお前の好きな筑前煮を作ってきてやったぞ。起き上がれるか?」
程よく空になった胃を刺激する甘辛い匂いに小さく鼻をひくつかせた晋助は、ズラ子に支えられて、ゆっくりと背を起こす。筑前煮に、ほうれん草のお浸しに、豆腐の餡かけ......栄養バランスがきっちりと考えられた数種類のおかずが、炊き立てのご飯と味噌汁と共に、盆の上に並べられていた。
なによりも心証が大切な万事屋稼業。
社長がやられたなどという噂が立ってしまっては、今後の仕事に影響が出ることは必須である。それを避ける為、武市にまた子、ペットの似蔵までもを朝から晩まで市中を走り回らせ、忙しい万事屋さんを装った(実際、後処理など諸々の事情で忙しいのは事実だった)。
そして、万事屋の社長は一人遠方の依頼へ出向いている......という設定にして、晋助は治癒に専念することにしたのである。
誰も居なくなった万事屋で、一人養生に努める晋助の世話を任されたのが、命の恩人であり、万事屋晋ちゃんの階下で「スナックお頭裸」を営み、晋助の家主でもあるズラ子なのである。
「どうだ、美味いか?」
「あぁ、まずまずだな」
「しっかり食べんと、大きくなれんぞ」
「......てめェ」
濃くもなく、薄くもなく。自分好みの上品な味に仕立てられ、よく味の染みた蓮根を晋助は口に運びながら、隣で満足げに頷くズラ子をぎろりと睨む。
朝餉は絶対に口にしないし、そもそもそのような時間に起きないという晋助の生活リズムに合わせ、昼餉にしては随分と豪華な食事を、ズラ子が二階へ持って上がって来るのは、時計の短針が、"とおあまりふたつ"の場所から何周か回った頃。
晋助に食事をとらせ、もちろん厠へも連れて行き、夜食用のツナマヨおにぎりを枕元に置いて、ズラ子は店の開店準備へと向かうのである。
「店を閉めたら、また様子を見にくるからな。それまでぐっすり寝ていろ」
「もうこれ以上寝られねェ」
「子守唄でも歌ってやろうか?」
「さっさと店へ戻れ」
ズラ子の歌う独特な子守唄は、何故か多様に韻が踏まれていて、寝つくどころか逆に目が冴えてしまう。まだ多少なりとも痛む肩の所為で、顎だけで玄関の方へと促されたズラ子は、晋助の頭を軽くぽんぽんと撫でると、晋介の食べ終えた盆を流しへ置き、トントンと軽快な足取りで外階段を降りていった。
***
『ズラ子ちゃん、今日も美人だねぇ』
『ズラ子ちゃん、俺にも酒注いでよ』
『おい、俺が先だぞ。ね?ズラ子ちゃん』
なんとも間延びした締りの無い声が幾つも聞こえてきて、晋助は目を覚ました。
人間は思っていたよりも、延々と寝続けることが出来るらしい......それはまだ、身体が休息を欲している証拠なのか。
いつの間にか寝入ってしまっていた晋助が辺りを見渡すと、万事屋は薄闇と静寂に包まれていて、意外と声が筒抜けの階下からは、賑やかな声が聞こえてくる。
「スナックお頭裸」本日も開店である――
晋助が万事屋に居る時間は意外に短い。
太陽が西に傾き出した頃にようやく寝床から起きてきて、まずは一服。紫煙を燻らせて、居間で待ち構えていた武市から手短に報告を受ける。
身支度を済ませ、簡単な食事をとった後は、そのまま従業員と共に江戸の闇へ消えてゆく。
依頼数はそれほど多くはないが、なにせ「危ない仕事」しか引き受けない万事屋さんである。
依頼遂行にあたっての根回し、依頼完了後の後処理......一つの依頼に手間も時間も存分にかけさせていただくことが、万事屋晋ちゃんの仕事のウリなのである。
その為、晋助が万事屋に戻ってくるのは夜が随分と深くなった頃がほとんどで、朝日が顔を覗かせる時間になることも少なく無い。
そんな仕事帰りの晋助と、店仕舞いの為に暖簾を片付けるズラ子。二人が顔を合わせることは必須であり、好い仲になるまでにそう時間はかからなかった。
誰も居なくなった店内。カウンター越しに初めて口付けを交わした時のズラ子の表情を、今でも晋助は忘れることが出来ない。
それまでは、何かと世話焼きの口煩い大家......という存在でしかなかったのに、明かりの落ちた、ほの暗い店の中で丁寧にグラスを拭くズラ子の姿を眺めていると、晋助の腕は知らず知らずに、ズラ子の口元へ伸ばされていた。
親指の腹で上唇の紅だけをこそぎ取り、「む、何を......」と言いかけたズラ子の唇を塞ぐ。
初めは軽く押しつけるだけだった唇を何度も重ね合わせているうちに、酸素を欲したのか、ズラ子の口が薄っすらと開かれた。それを晋助が見逃すはずも無く、深く差し込まれた舌はズラ子の口内を存分に甚振り遊んだ。
どれくらいの時間が経ったのだろうか。ようやく唇を解放した晋助が見たものは、落とさぬようにと胸元で必死にグラスを抱え込み、肩で荒い息をして、上気した頬と潤んだ目で晋助を睨みつける、なんとも扇情的な大家の姿だった。
「馬鹿者......こちらにも心の準備というものがあるのだ。今後は一言断ってからにしろ」
『ヅラ子ちゃんの手って本当に綺麗だよねぇ』
『お客さん......うちはお触り禁止だって何回も言ってんだろ!!』
ひと際賑やかな声が聞こえてきて、晋助はいつのまにやら落ちていた微睡の世界からまた舞い戻ってきた。
ズラ子と顔を合わせるのは、いつも客が店を去っていった後。こうしてスナックお頭裸で「大人の癒し」として振る舞うズラ子の姿を、晋助はあまり知らない。
階下から聞こえてくるのは、客達の「ズラ子ちゃん」「ズラ子ちゃん」という名の後に続く、欲にまみれた低俗な呼びかけと、それを制裁する西郷の声。
ズラ子の声は晋介の耳にはほとんど聞こえてこないが、欲まみれの誘いを素気無く交わし、ちょいと濃い酒を呑ませて、片っ端から客を潰しにかかる姿が、脳裏に容易に浮かぶ。
普段は強気で正義感が強く、凛とした美しさをもつズラ子。陰では「姐さん」などと呼んでいる者もいるらしいが、恥じらい、惚けたあの表情を見せるのは己の腕の中でだけ。
そう思うと晋助は、階下の客のことなどどうでもよくなり、また微睡みの世界へ落ちて行った......
***
『ズラ子ちゃーん』
ガラガラと乱暴に引き開けられた戸の音で、晋助はまたまた目を覚ます。
枕元の時計を見ると、時刻は子の刻を過ぎた頃。スナックお頭裸の本日の営業も終わりだという頃にやってきた無粋な輩は何処のどいつだと、寝起きのぼんやりした頭で高杉は一人ごちる。
『金時。もう店は仕舞いだぞ』
数時間振りに聞いたズラ子の声に、晋助は思わず顔をしかめる。
『いいじゃん、少しくらい。水一杯だけでいいから、ね?』
『それ完全に営業妨害ではないか。せめて水割りにしろ、金時』
晋助の顔がさらに大きく歪んだ。
ズラ子の口からたまに聞かされるその男。金時という名の男は突如彗星のように、かぶき町のホスト界に表れ、瞬く間に頂点に登りつめた奴である。万事屋の情報網をもってしてでも、その過去は一切不明。
緋色の瞳に、目の覚める様な金色の髪をした、天パの風来ホスト......という以外に晋助が金時について知ることは何ひとつ無かった。
『やっぱ、ズラ子ちゃんの作ってくれた酒は美味いね』
『褒めても何も出んぞ。さっさと呑んで、さっさと帰れ』
『相変わらずつれないなぁ、ズラ子ちゃんは』
どうでもよくなっていた客への関心が、むくむくともたげてきて、晋助は大きく舌打ちをする。直接顔を合わしたこともなければ、会話も交わしたことも無い。それなのにズラ子から金時の話を聞くたびに、晋助の機嫌はいつも急降下。どうにもいけ好かない野郎なのである。
なんとかこのイライラを解消させたくて頭上に右手を伸ばしてみるものの、いつもはそこにある煙管と、派手な蒔絵細工が施された煙草盆はやはり無い。晋助が床に伏せることになったと同時にズラ子がどこかへ隠してしまったのである。
かれこれ一週間、晋助は禁煙生活も強いられている。傷の痛みに耐えるよりも、こうして突然押し寄せる喫煙欲求に耐えることの方が晋助には苦行であった。
『上の人。最近見かけないけど、なんかあったの?』
突然、抑揚の変わった金時の声に、晋助は思わず耳をそばだてる。上の人......とは間違いなく晋助のことだろう。
『晋助のことか?あぁ、なんでも遠方での依頼が入ってきたらしくてな。暫く留守にするらしい』
打ち合わせ通りの設定を、なんとも自然な態度で伝えるズラ子の話を聞いて金時は『ふーん』と気持ちのこもらぬ返事を寄越す。
『暫くってどれぐらい?』
『さあな。俺にも分からん』
『そっかぁ。じゃあ、丁度いいや』
『何が丁度いいのだ?』
『鬼の居ぬ間にズラ子ちゃんを口説き落とせる、絶好のチャンスだってコト』
――あの天パホスト、まじでぶった斬る。仕事に復帰したら真っ先に斬ってやらァ――
それとも今か。今、殺るしかないのか。動かぬ身体を引き摺って、店に乗り込んでやろうかと考える晋助の思考を止めたのは誰でもない、ズラ子だった。
『ふん。ひよこみたいな産毛頭をした若造が生意気なことを』
『あ、何それ。金さん、とっても傷ついたんですけどぉ』
『見え透いた嘘をつくな』
『ズラ子ちゃんは、あの万事屋のことどう思ってんの?っていうか、二人ってどういう関係?付き合ってんの?』
金時のあまりにも直球な質問に、高杉が息を呑む。気まぐれで始まった猫のじゃれ合いのような二人の関係。戯れの台詞をはいて揶揄うのは、いつも晋助ばかり。ズラ子はそれを、照れながらも嬉しそうに微笑んで受け止めてくれるだけで、思えばズラ子の気持ちらしきものを聞いたのは、初めてキスを交わした時だけかもしれない。
『晋助は......』
ズラ子の静かな、だが迷いの無い凛とした声が天井を通って晋介の耳に届く。
『寝汚いし、偏食だし、中二病を拗らせて煙草ばかり吸っておるし、本当に手のかかる奴でな。あ、だが家賃だけは毎月きっちり払ってくれるぞ』
『え......なにそれ。ただの金づるじゃん』
金時のつっこみに思わず晋助も頷く。そんな風に自分は思われていたのかと。
『不器用な奴だが、根は優しい奴だ。表に見えぬだけで、江戸の治安がこうして護られているのも、少なからずは奴のお陰だということをお前も知っているのだろう?』
『うん......まぁね』
『無愛想でぶっきらぼうに見られることも多いが、心根は誰よりも繊細で純粋な奴だ。その矛盾とも言える奴の姿に惹かれて、慕い、寄ってくる者がいるのだろう。俺もその姿をずっと見ていたい』
『あーはいはい、ごちそうさま。で、実際のところ、二人は付き合ってんの?突き合ってんの?』
『水割り一杯で答えられるのは、ここまでだ。これ以上のことを聞きたければ、もっと良い酒をいれることだな』
――ほら、今度こそ閉店だ。さっさと帰れ――
――俺もズラ子ちゃんみたいなツレが欲しいよぉ。まぁ、お幸せにぃ――
誰に向かってそれを言ったのか。そこには居ない誰かに呼びかけるようにして、金時は店を後にした。
時刻は丑の刻に差し掛かかろうとしている――
***
「今日は遅かったじゃねェか」
「すまぬ、起こしてしまったか。あぁ......なかなか帰らぬ客がおってな。俺も難儀した」
それから程なくして。
物音を立てずにそっと晋助の様子を覗きにきたズラ子は、晋助が起きていることを知ると、いかにも疲れた風を装って、晋助が寝ている布団の傍へ腰を下ろした。
「お疲れのところ悪ィが、一つ頼みを聞いてくれねェか?」
「どうした?厠か?厠に行きたいのか?そこまで我慢出来ぬのなら、尿瓶もあるぞ?」
「ちげェよ」
――身体を拭いてはくれねェか――
晋助の頼みとは、湯浴みがしたいということだった。
とは言っても、肩や足の銃跡がまだ完全に塞がってはいないので布団の上で身体を拭くだけの簡易的なものではあるが。
なぜかいつもより心なしか子供じみた様子でねだる晋助を見て、明日は雨か?なんてことを思いながら、ズラ子はいそいそと湯を沸かす準備を始めたのであった。
「どうだ?熱くないか?」
「あぁ。いい塩梅だ」
寝巻の浴衣を上半身だけ肌蹴けさせ、掛布団の上に座る晋助の背中へ、ズラ子は丁寧に慈しむように、ほわほわと湯気のたつ手拭いをあてている。
左肩に見える傷はまだまだ痛々しいが、そこを避けながら、逞しく引き締まった筋肉に沿うように手拭いを動かす。ゆっくりと時間をかけて背を拭き終わったズラ子は、晋助へまだ熱い湯で絞り直した手拭いを差し出した。
「何だよ」
「湯が冷めぬうちに前を拭いてしまえ」
「お前さんが拭いてくれりゃァいいじゃねェか」
「ば......馬鹿者!前くらい自分で拭けるだろう!」
「左肩が痛てェ」
「右手は動くではないか!ずっと寝たきりなのだから、これは"りはびり"だ!"りはびり"!」
顔を赤くして慌てるズラ子を見て、晋助は右手でちょいちょいとズラ子を呼び寄せる。
「ん?どうした?」
ほんのりと頬を赤くしたまま己の傍へ近付くズラ子の耳元で、小さく晋助は呟く。
――なんなら、アッチを拭いてくれても構わねぇんだぜ?――
「戯け者!!」
大きく張り出された平手を顔面で受け止めた晋助は、それ以上は何も言わず、大人しく一人で身体を拭く羽目となった。
同じモノがついているわけだし、今更恥ずかしがる関係でも無いくせに......
こんなことを口にすれば、もう一発平手をくらう羽目にも成りかねないので、そこはグッとこらえ、身体を拭き終えた晋助は、さっぱりとした腕を浴衣へゆっくりと通す。
視線を避けるようにして、和室にある腰窓の方へ顔を向けていたズラ子だったが、晋助が浴衣を着込んだことを確認すると、おもむろに立ちあがり、突然和室の照明をぱちんと消した。
「おい、どうした......」
アッチを拭いてくれる気にでもなったのだろうか。
晋助の問いかけには答えず、窓へと向かったズラ子は閉められていた腰窓の障子を勢いよく開け放った。
「これは......」
「綺麗だろう?今日は十三夜だ」
十三夜――
それは十五夜の次に巡ってくるもので、中秋の名月に次いで美しいといわれる月の出る夜のこと。
旧暦九月十三日を指し、古来よりその夜には月見の宴が催されていたともいわれている。
「俺もすっかり失念しておったのだが、客が教えてくれてな。お前が起きていたら、一緒に見ようと決めていたのだ」
開いた窓越しに見えるその月は、江戸を見下ろすように優しく雄大に、厳かに、町を静かに照らす。
照明の明かりを落とした万事屋の和室にもその光は差し込み、二人を包み込んでいる。
「十五夜月も素晴らしいが、俺はこっちの方が好きだ」
月明かりに照らされて。微笑むズラ子のそのかんばせは、この世の者とは思えぬほどの美しさだと、なんともありきたりな感想を晋助は抱く。
十三夜月――
この月が美しいとされている理由の一つに、その形がある。十五夜月と違って、十三夜に見える月は完全な満月では無い。古来より、ほんの少し僅かに欠けるその様が、趣のある美しさだといわれているのだ。
その月をズラ子は好きだと言った。
それはまるで、闇の中でしか生きることの出来ない、そんな道を選ぶことしか出来ない自分のことを言ってくれているようで......
そう思ってしまうは、晋助のエゴで、ただの思い上がりなのだろうか。
「お前を見ているようでな......」
コイツには何もかもお見通しってわけか......
晋助は自由に動く右腕でズラ子を己の胸の中に誘い込む。何も言わず小さな頭を、晋助の胸に預けたズラ子と、それを受け止める晋助。二人はそれから言葉を交わすことも無く、ただただ静かに後の月を見上げていた。
「晋助!大変だ!」
好い雰囲気も一体どこへやら。
晋助の胸から飛び跳ねるようにして身体を起こしたズラ子は、何やら慌てた様子で晋助へ詰め寄る。
「お、おい。一体どうしたってんだ......」
「俺達は十五夜の月見をしておらん!これでは片見月になってしまうではないか!」
青い顔をして狼狽えるズラ子を見ながら、晋助はにやりと人の悪い笑みを浮かべる。
「片見月ったァ、なんだっけなァ」
右往左往するズラ子を、再び胸の中へ囲い込んだ晋助は、腕の中でどうしよう......とまだ焦っているズラ子へそっと問う。
「晋助、知らんのか。片見月とは、十五夜と十三夜どちらか片方しか月見をせぬことで、それはとても縁起の悪いこと。特に恋人達は別れてしまうという言い伝え......!!」
そこまで言ってようやくズラ子は、言葉を止めた。
ここからでは顔はよく見えないが、黒髪の隙間から見える小さな耳は、湯気がたちそうなくらいに真っ赤に茹であがっていて、日頃は透き通るような白いその頬も、それと同じくらいに、今は真っ赤に染まっていることだろう。
「そうかい。お前さんの言う恋人とは、俺とお前さんのことで、お前さんは俺達に別れが訪れるかもしれないってことを心配してるってこったなァ」
なんとも不親切な解説付きで。
ズラ子の気持ちを一言一句逃さぬように、晋助はズラ子が焦った理由を丁寧に厭らしく復唱する。
「いや、そうではないぞ!いいや、そうだけどそうじゃなくて!」
やはりこの姿は誰にも見せたくない。この月にだって見せてやりたくはないと晋助は思う。
ズラ子は晋助のことをずっと見ていたいと言ったが、それは晋助だって同じこと。
戯れ付く猫のような、ただの気まぐれから始まった関係だと思っていた。
だが、あの日......数年前の雪が降り積もる墓場の片隅で、行き倒れていた晋助をズラ子が拾ってくれた瞬間から、こうなることは決まっていたのかもしれない。
まあそれも、捨て猫と大差ないものだけれども。
「来年の十五夜を一緒に見ればいいじゃねェか。それで問題ねぇだろう?」
「......なんとも強引な奴だ。仕方が無い。それまでは一緒にいてやろう」
――ずっと離さねェよ。逃げれるものなら逃げてみろ。何処へ行っても探し出してやる。
万事屋晋ちゃんの力、舐めてもらっちゃァ困るぜ――
「ズラ子、俺ァ栗饅頭が食べたい」
「俺も同じことを思っていた。明日の"でざーと"は甘い栗饅頭で決定だ」
「明日までなんか我慢出来ねェ。甘味なら丁度ここにあらァ」
「甘味?一体どこに甘味など......んんっ」
十三夜月、またの名を栗名月。
それを堪能するまで......その甘さを存分に堪能するまで......
万事屋晋ちゃん、もう少しだけお休みさせていただきます。