カン、カン、カン、カン…と階段を降りて、階下の店の扉をカラリと開ける。
店頭で怪しげな光を放つネオン看板にはこう記してあった――「スナックお頭裸」。
店に入ると、カウンター内に立つ美しい和服姿の人が入口にちらりと視線をよこし、微かに目配せした。
黒いジャージに着流しを片袖を通しただけといういでたちの隻眼の男は、黙って視線が示唆した客の隣に座る。
「いつもので良いか」
「ああ」…という返事を聞くより前に、棚のボトルを一つ取り上げると、流れるような仕草でロックアイスを入れたグラスに琥珀色の液体を注ぎ、軽くステアしてカウンターに置いた。
「それでね、ズラ子ちゃん…」
他の客の酒を作る間も待ちきれなかったように、中年の隣客がうっとりした口調でズラ子に話しかける。
「今度、臨時収入が入るから、デートしようよ」
「ボーナスには、少し早いのではないか?」
「これは、秘密の臨時収入。女房にだって言わないけど、ズラ子ちゃんとはお祝いしたいんだよ」
「俺なんかのことより、奥方に新しい着物でも買ってやれ」
「そう言わずにぃ…古女房なんかよりもぉ?、ズラ子ちゃんと楽しい時間を過ごしたいんだよぉ」
目の辺りをとろんと赤くし、やや呂律が回りにくくなった口調で陽気に語った男は、目の前に水の入ったグラスを置いたズラ子の手をすかさず握りしめる。
「ねぇいいだろぅ、ズラ子ちゃ?ん」と甘えた口調を重ねながら、その白い華奢な手をサワサワと撫でさすった。
ガタ…
隣の隻眼の男が、軽く腰を上げる気配を察したズラ子が、
「ほら、大塚殿少し飲み過ぎだぞ」と、すっと客の手の中から自らの手を引く。
そして魅惑的な笑みを浮かべながら、「今日は少し飲み過ぎだから、もう帰った方がいい。タクシーを呼ぼう」と、カウンターの奥の受話器を取り上げた。
隣で腰を浮かせかけた男が、黙って座り直す。
タクシーを呼んだズラ子は、もうまばらな店内の客にも声をかけた。
「今日はそろそろ看板にさせてもらおう、またゆっくり来てくれ」
テーブル席で飲んでいた男達も、ホステス達に別れを告げたり、アフターに誘ったりしながら、一人、二人と店を後にした。くだんの客を、タクシー運転手に頼んで車内に運んでもらい、ネオンの照明を落とす。ホステス達を戸口まで送り、店の扉をカラカラと締め切ったのと同時に、後ろから抱きすくめられた。
「もう閉店だぞ」
「だから、これからはプライベートタイムだろ」
軽くため息をつきながら、背後から腕を回す男??高杉晋助を振り返る。
「貴様、また短気を起こしかけただろう。せっかくの情報源だと思って連絡してやったのに、ひと騒動起こしたら警戒されて計画が台無しではないか」
「…あの野郎、お前サンに触りやがった」
「こんな仕事だ。あのくらいのことを気にしていたら、やってられるか」
「俺が、気にするんだよ!」
そう言って、腕の中のズラ子を強引に振り向かせると、性急にその唇を奪う。
強引な口づけにその腕から逃れようとした細腰を左腕で、つややかな黒髪をたたえた頭を右手で固定すると、より深く貪るように口づけた。
「…あっ…ん…」
抵抗する力が徐々に弱まり、いつしか甘い吐息をもらすズラ子の両腕が、晋助の首の後ろに回され、キスに応え始める。
やがて、もつれるように、二人の影は、テーブル席のソファに倒れ込んだ…。
* * *
かぶき町の片隅の小さなスナックに、隻眼の男が流れてきたのは数年前の冬のことだ。
今日のように店じまいをしていたズラ子が、ふと気配に気づくと、店の建物の二階に続く階段に、ぽつりと男が座っていた。見ている方が寒くなるような薄着のまま無表情で佇む男に声を掛けたのはズラ子の方だった。
「そんな寒いところに座ってないで、中に入れ。熱い茶でも淹れてやろう…」
聞けば住むところもないという男に、空いていた二階を世話した。
ぷらりと店に来れば、何も言わずに簡単な食事を出してやった。
「ズラ子ちゃん、最近ご機嫌じゃない?」と客に聞かれれば、
「そうか、野良猫を飼い始めたので、そのせいかもな」と笑った。
そんな状態がしばらく続いた頃、晋助が聞いた。
「なァ、アンタ何で見ず知らずの男にここまでしてくれンの?」
「死にそうな野良猫を見けたら、放ってはおけんだろう」
「何で、なんにも聞かねェんだ」
「それは、お互い様だろう」
「……なァ……アンタのこと、抱いてもいいか?」
「…わかってると思うが、俺は男だぞ」
「だからどうした」
即答した男に、一瞬目を丸くしたズラ子が、楽しそうに笑った。
「一つだけ言っておこう。俺も野良猫なら何でも拾う訳ではないぞ」――
その後、高杉晋助は、スナックお頭裸の二階に「万事屋」の看板を掲げた。
晋助を探し当てたという昔の知り合いや、新たな従業員も雇って始めたのは、表立っては「何でも屋」だったが、その実いわゆる裏社会に関わる請負を主に専門とした。
その家業に、ズラ子も頼まれれば情報屋として協力した。
お互いに、どうしてそんなに裏社会に通じているのかということは、聞くことがなかった。過去に訳ありということは、最初に出会った時から百も承知だった。しかしそんなことに関係なく、お互いに見えない力に抗えないかのように体を重ねる関係が続いていた。
* * *
「やっぱり大塚殿のデートとやらにつき合うか…」
万事屋の和室に敷かれた布団の上で、うつ伏せのまま肘をついて体を起こし、片手で晋助の髪をもて遊びながら、ズラ子が言う。
「デートなんかしたら、またあの野郎、お前サンにベタベタ触るだろう」
自身の髪に触れる手を引き寄せ、軽く口づけながら、晋助が返した。
「でも、現場を押さえるには、それが一番早そうだ」と、ズラ子が軽くため息をつく。
今、晋助が請け負っているのは、とある薬の出どころを探る依頼だ。
もともとは趣味の悪い天人の貴族階級が、奴隷を隷属させるために用いていた薬らしい。それが裏ルートで地球に流れ、大量生産されて出回っている。
弛緩剤の一種で、投薬されると一時的に体の自由がきかなくなる。それを用いたレイプまがいの事件が多発していた。しかもたちが悪いことに、中毒性がある。強姦時の様子を映像で残し、訴え出れば公表すると脅し、おとなしく従っていればまた薬をやると誘惑する。そうしていつしか、身も心もボロボロにされる被害者の数が密かに増えつつあった。
それを造っているらしいラボに出入りしている人間のうち、唯一正体が割れたのが、製薬会社の重役である大塚だった。ギャンブルなどはやらないが、女好きで、過去にも水商売の女と何度かトラブルを起こしたことがあることがわかり、ズラ子に情報収集の協力を依頼をすることに相成ったのである(従業員のまた子が、自分がやると言い張ったが、「青くせェお前さんにはまだ色気が足りねえ」と晋助が却下した)。
ズラ子が偶然を装って、大塚に近づいたのが二週間ほど前。その後、週三ペースで店に入り浸るほど、大塚はズラ子にご執心だった。
「大塚殿の口ぶりでは、近々大きな取引がありそうだ。これ以上被害者が増えるのも気の毒だし、そろそろ行動に移した方がいいだろう。その代わり、協力費はたっぷりはずんでもらうぞ」
裸の半身を起こしたズラ子が、隣で寝そべる男を見下ろして、いたずらっぽく笑う。
「じゃあ、たっぷりサービスしてやるよ」
そう言って、細い手首を引き寄せ、再び抱き込もうとした男の頭をペシリと叩いた。
「公私混同はせぬぞ。きっちり耳を揃えて払ってもらうからな」
するりと腕から逃れた痩身が、立ち上がって着物をふわりと羽織ると、振り返って楽しそうに言った。
「今朝は、ナスと秋ミョウガの味噌汁にしよう。晋助、好きだろう?」
昨夜の痴態が夢だったかのように、清々しさをまとって台所に消えていく後ろ姿を見送りながら、
「お前サンの方がご馳走なンだがな…」と小さく嗤った。
* * *
その数日後、ズラ子は大塚と料亭の一室にいた。
「いやー、ズラ子ちゃんがデートしてくれるなんて夢みたいだ」
「大塚殿はいつも贔屓にしてくださるのでな。それに、この店の料理は大変評判が良いと聞いていたので、一度来てみたくて」
うっとりするような微笑をたたえたズラ子が、差し向かいで徳利を差し出して酌をしてくれる。大塚は、どこまでも上機嫌だった。
「お腹が痛いと言って、ズラ子ちゃんが道で蹲っていたのを助けた時、あの時ほど、薬関係の仕事をしていて良かったと思ったことはないよ」
「大塚殿が差し出してくれた薬を飲んだら、嘘みたいに楽になって、本当に助けられて…」
「いやいやその後、御礼に店に招待してくれて、こっちこそいいお店を教えてもらえてラッキーだったよ。この前、接待の二次会で寄らせてもらった時も評判良かったんだよ?。雰囲気がよくて落ち着くし、女の子たちは気立てがいいし、小鉢も気が利いてるし…」
そう話しながら立ち上がった大塚は、座卓を回ってズラ子の傍らに腰を落とすと、馴れ馴れしく肩を抱いた。
「…何より、ママが美人だ」
「そんなことはない。それより、今日は大塚殿の仕事の話を聞きたいと思っていたのだ……例えば…その右手に持っておられる注射器の中身が何なのかとか」
「…!!!」
慌てて引っ込めかけた大塚の手を、ズラ子がすかさず掴む。この細い腕のどこにそんな力があるのかと思うくらい強く握られ、抗うこともできまないままぶるぶると力が抜けていく掌には、小さな注射器が握られていた。
「これを俺に打とうとしたことには目をつぶってやるから、ラボに案内してくれないか?」
「…くっ!!」
大塚が悔し紛れにあがき、空いている左手で殴りかかってきたのを避け、掴んでいた手を背中に捻り上げると、掌の注射器を取り上げ、大塚の首元にぴたりと充てた。
「やれやれ、手荒なことはしたくなかったのだが、致し方ない。ラボに案内してくれたら、無傷で返してやるから、諦めて腹をくくってくれ」
先程までとは別人かと思うほどの冷たい声と気配に、背筋がぞくりとし、大塚は抵抗を諦めた。
後ろ手に掴まれた腕に、注射器のヒヤリとした感触を感じながら、促されるままに、大塚とズラ子は店の裏口から外に出た。
戸口には壁にもたれるように一人の男が立っていた。鋭い隻眼で視線をよこした男は、確か「スナックお頭裸」の常連の一人だ。
「なんだよ、本人まるごと連れてきたのか。IDカードと指先と眼球さえあれば、潜入できンだろ」
冷徹な低い声で紡がれた言葉に、大塚がぶるっと震える。
「また、お前は物騒なことばかり。無用な殺生は避けた方がいいし、何か使いようもあるだろう」
「どうだかな、ま、目と口が付いてるんなら、まずは目星をつけた場所で間違いないか、ナビゲーションシステムになってもらうか」
そう言って、ズラ子の手から大塚の身柄を引き受け、裏口に停めた車に向かって歩かせながら、
「言っておくが、ごまかそうとかしない方が身のためだぞ。嘘を教えているとわかった瞬間に、眼球だけにしちまうからな」
と低く言い聞かせた。
3人が後部座席に乗り込むと、晋助の昔馴染みであり万事屋の従業員である河上万斉の運転で、車は滑るように宵闇の中を走り始めた。
* * *
観念した様子の大塚の言う通りにしばらく行くと、ある建物の前にたどり着いた。
小突かれるように車を降りた大塚の両脇には、白衣姿にマスクをかけたズラ子と晋助が立った。
大塚を呼び出して拘束した時点で、ズラ子は手を引いて構わなかったのだが、確実な製造現場を押さえるために、薬物の知識が少しあるというズラ子の申し出を受けることにしたのだ。
二人の少し前を歩かされる大塚の背中には、固い銃口が充てられていた。
「背中で呼吸したくなかったら、うまいことやれよ」
その言葉よりも声音に、逆らってはいけないと本能が反応する。
警備員室の前を大塚がIDカードを見せて通り過ぎようとすると、想定していたことだが、止められた。
二人の警備員のうち、一人が出てきてゲートの前に立ちふさがる。
「大塚様、こんな時間に何をしに?そちらのお二人は?」
「取引先の研究員の方だが、ちょっとトラブルがあったから、ラボを確認させてほしいと」
「連絡を受けておりません。それに時間外は誰であろうと入れるなと言われています」
「そう、固いこと言うなよ」
晋助が、大塚の後ろからひょいと顔を覗かせると、プシュッと警備員にスプレーを吹きかけた。
警備員の体がぐにゃりと崩れる。
それを見て、警備員室に残った警備員が慌てて非常ボタンに手を伸ばそうとした時、スパンと首元に手刀が落とされ、倒れ伏した。
…後ろに立っていたのは、いつのまにか警備員室に侵入していたズラ子だった。
「おい、体力仕事は替われ」
「しょーがねーなー、姫の仰せのままに」
そう言うと、大塚の背に当てている銃口はそのまま、銃をズラ子に握らせ、ゲート前で倒れた警備員を引きずって警備員室に入れた。気絶している二人の手首をガムテープで拘束して、目と口も塞ぐ。
その間、ズラ子が大塚に話しかける。
「貴様が以前俺にくれた痴漢撃退スプレー≠ヘ、効果絶大だな」
「人の好意をアダで返すとは…」
「好意じゃなくて、下心だろう」
警備員室から晋助が楽しそうに茶々を入れてくるのをスルーしながら、ズラ子が銃口をギリと押し付ける。
「一定時間眠らせるけど、体に有害なものは残さない、で間違いなかっただろうな?」
「…あ…ああ」
「なら、いいのだ」と、物騒な行動とまるで一致しないような笑顔を浮かべた。
大塚の示す通り、エレベーターに乗り、廊下を進む途中で、出くわした数人の警備員は、さっと走り寄った晋助が回し蹴りで倒した後、手と口をガムテープで拘束した。とどめのように、痴漢撃退スプレーを顔に吹き付けつつ、ズラ子が楽しそうに言う。
「やるもんだな」
「まぁ、昔取った杵柄ってやつか」
「へぇ。…しかし、極秘のラボにしてはやや警備が手薄だな」
「頭でっかちのヤツの巣窟だから、最新の防犯システムに頼りきってるんじゃねェか、最も今頃は万斉のオモチャだがな」
「罠の可能性もあるぞ」
「どっちにしても、ここまで来たら、引き返せねーよ」
そう話し終わった時に立っていたのは、ひときわ警備システムの物々しいドアの前だった。
「ほら、おっさん、出番だぞ」
銃口で小突かれた大塚が、ドアの前でよろけながら、IDカードをドアの横の挿入口に差し込む。続いて指紋認証、網膜の認証が終わると、ラボのドアノブの点灯が赤から緑に変わった。
そっと伺うように中に入ると、無人だった。
薄暗い部屋の中に、ぼうっと光を放つ機器や装置が所狭しと並んでいる。
「ビンゴか?」
「そのようだ」
「じゃあ、とりあえず指と目は用済みだな」
そう言うと素早く大塚を手近な椅子に座らせ、両手を後ろ手にガムテープで拘束し、両足首も拘束した。
その間にズラ子が、一番上席と思われるデスクのパソコンを起動させると、USBのような小型の装置を差し込む。
「晋助、万斉殿につないでくれ」
大塚を拘束した晋助が、耳元に手を当て「万斉、どうだ?」と低く囁いた。
『首尾は上々でござるよ、思ったよりゆるいのがちと気になるが……今から言うコードを入れてみてくれ』
晋助が、パソコンの前のズラ子の背後から両手を伸ばし、幾通りかキーを打ち込むと、ロックが解除され画面に数枚のデータが開く。
「これでいいか」
『ああ、後は任せるでござる』
「晋助、カメラを貸せ! 証拠になりそうな装置は撮っておく」
「ほらよ」
ズラ子に小型カメラを渡すと、晋助は大塚に歩み寄った。
「いいな、アンタは見知らぬ男に脅されてここまで案内した。料亭でのこともしっかり録画してあるからな、アンタが会社からいろいろな薬を持ち出して悪用しようとしてたことをバラされたくなかったら、今後余計な詮索は……」
パスッという音がして、晋助の言葉が途切れたのに気がついた桂が振り向いたのと、部屋の灯りがパッと灯ったのが同時だった。突然明るくなった視界に、瞬かせた目に入ったのは、晋助がぐらりと力なく崩れ落ちる様だった。
「晋助!!」
急いで駆け寄ろうとした瞬間、もう一度パスッという音と共に、大塚の首元に小さな針が刺さったのを見て、すぐに近くのデスクの影に身を伏せる。
コツ…コツ…コツ…といつの間にか姿を現した青白い顔のひょろりとした男が、晋助のところまで歩いてくると、その右手をぐっと踏みつけ、晋助の手から離れた銃を拾い上げると、ぐいっと晋助の首を肘に挟み、こめかみに銃口を押し充てた。
「両手を挙げて、出てきな」
ズラ子が黙って両手を挙げ、立ち上がる。
「マスクを取れ」
長い黒髪を後ろで束ね、白衣をまとった痩身が、言われるままにマスクを外すと、薄化粧を施した中性的な美しい顔が露わになる。
その顔を見た男の目が少し驚いたように見張られる。
「…おい、嘘だろ…もしかしてとは思ってたけど、まさか本当に…」
そうして、狂ったような笑い声を上げた。
「ネズミが嗅ぎ回ってるらしいと聞いて、野心だけでろくに能力もない男をエサにおびき寄せてみれば…とんでもない大魚が釣れた! エビで鯛を釣るとはこのことだな…」
「趣味の悪い薬だと思っていたら、やっぱりお前が絡んでいたとはな、ファイザー」
「お前こそ、相変わらずそのキレイなツラで、たらしこむのが得意と見える…桂ァ」
打ち込まれたのは、麻酔の一種なのだろう。体に力が入らない。晋助は、ぼんやりする頭で、ズラ子と男のやり取りを聞いていた。
「能面のような顔しか見せない、人形みたいだったお前が、ずいぶん人間らしい顔を見せるようになったじゃないか。もしかして、コイツの影響か」
ファイザー、と呼ばれた男が、楽しそうに晋助のこめかみにぐりぐりと銃口を押し付けてみせた。
微かに、ズラ子の表情が歪む。
「やめろ。大事なラボで殺生沙汰なんか起こしたら、クライアントの機嫌を損ねるだろう。何より潔癖症のお前は、ラボに血液が飛び散るのを良しとしないはずだ。データは返すからそいつを離せ」
「へー、本当に随分と入れあげてるんだ。こりゃぁ、いい」
さも愉快そうに笑うと、銃口を桂に向け、壁際まで移動すると、鍵付きの棚から小型のアタッシュケースのようなケースを取り出し、桂の足元に滑らせた。
「今、出回っている薬は、何回か使うと人格が壊れちまうってクレームが多くて。だから依存性は高いままで、脳への損傷は少ない改良版を造れって上がうるさくてよ。ちょうど試薬ができて、人体実験がうまく行けば、もう一儲けできる手はずだ。実験台としては、これ以上ないサンプルが手に入ったんだ。早速試してもらおうか」
ズラ子が足元のケースを拾い上げ、デクスの上で開く。
中にはアンプルが数本と注射器が入っていた。
「ほら、早くしろよ。お前がエサなら食いたいっていうヤツは、昔馴染みにも、今のクライアントにもゴマンといるだろう。お前を手土産にすれば、もっと条件のいい研究施設で面白ェ研究もできそうだ。組織が潰されてから、ずっとついてないと思ってたが、案外ツキが回ってきたかもな…」
男の言葉を聞いた晋助が、渾身の力をふりしぼって、その腕から逃れようとした。
男は一瞬驚いたが、すぐに冷ややかな笑みを浮かべて、容赦なく晋助の太腿に銃弾をかすめさせた。
「ぐぁっっ!!!」
「晋助っっ! やめろ! ファイザー!」
「ほら、早くしないと、どんどん穴が増えて、スポンジみたいになっちゃうよ」
男が楽しそうに、晋助の身体のあちこちに照準を構えてみせる。
「わかったから!」
ズラ子はアンプル一つと注射器を取り出すと、ケースを閉め、ファイザーの方に蹴り戻す。
手慣れた手つきで、アンプルの中の黄色い液体を一気に注射針で吸い上げた。
「…や…めろ…」
ファイザーの足元でうめく晋助に、ズラ子が申し訳なさそうな顔を向ける。
「晋助、今回はどうやら俺の方に巻き込んでしまったらしい。悪かったな。協力費はチャラでいいから、後のことは頼んだぞ」
そう言って、にっこり微笑むと、袖を捲り上げた左腕に躊躇なく注射針を打ち込んだ…。
カシャーン、と冷たい音を立てて注射針が床に落ちるのと、ズラ子の体が崩れ落ちるのがほぼ同時だった。
「アーハッハッハッ…あの桂が…男一人のために…こりゃあいいや、ハーハッハッハッ……」
優越感に浸っていた男の高笑いがピタリと止まる。
「…テメェ…何を…」
そうつぶやいて見下ろした自身の足首に、晋助が注射針を打ち込んでいた。
ドサリと倒れたファイザーの耳に、晋助の言葉が届く。
「悪ィ、これ改良版の前のヤツだわ。人格が壊れちまうっていう」
晋助が手にしていたそれは、大塚がズラ子に打とうとしていたもので、ズラ子がアンプルを取り出す時にさり気なく晋助に目配せして、こっそりケースに入れて蹴り返していたのだ。
自身のベルトを引き抜いて、太腿を圧迫止血し、痛みに顔をゆがめながらも皮肉を込めた口調で言う。
「テメエが太腿撃ってくれたお蔭で、だいぶ頭がシャキッとしてきた。礼を言わなきゃな…」
その時、
「晋助! 無事でござるか?」と万斉が飛び込んできた。
「おせェよ!!」
「助けに来たものに第一声がそれとは、ひどいでござるな…」
そんな万斉の返しには構わずに、ズラ子の方に這って行った晋助が、ズラ子を膝に抱え起こす。
「ズラ子っっ! しっかりしろっっ!!」
しかし、その四肢はくたりと弛緩したままで、薄く開かれた目は虚ろに遠くを映していた。
「ヘロヘロの男が4人…」
ラボを見渡した万斉がため息をつく。
「おっさんは置いてていい、お前はそのマッドサイエンティストをクライアントの所に連れて行け。ズラ子は俺が連れて帰る」
「そのフラフラにその足で無理でござるよ」
「うるせェっっ!!」
「自分で守れなかったからって、八つ当たりしないでほしいでござるな…。逃走ルートで待機させていた武市とまた子を呼んでるでござるよ」
万斉がそう告げたすぐ後に二人がやって来て、武市がファイザーを、万斉がズラ子を抱え、晋助はまた子の肩を借りた。
「想像以上に軽いでござるな…それに良い香りがする」
ズラ子を横抱きにして、軽く口笛を吹いた万斉を晋助が睨みつけた。
* * *
足の治療を終えた晋助は、ズラ子は急病でしばらく店を休むと店のスタッフに連絡することと、こちらから連絡するまで万事屋には近づかないよう指示をして、ズラ子と万事屋に篭り中から鍵をかけた。
布団に横たえたズラ子は、相変わらずくたりとした人形のようだ。白いシーツに長く黒い髪を広げ、しどけなく四肢を伸ばし、口を半開きにしたまま、虚ろな瞳をしたズラ子は、あまりに扇情的で目の毒だった。
つくづく、あの変態科学者の手で、どこの誰ともわからないヤツの手に引き渡されなくて良かったと思う。
晋助は時々目を覚ましたズラ子の口に、スープなどを流し込んだりしながら、つきっきりで過ごした。
隣で寝ていたズラ子が、むくりと半身を起こしたのは、万事屋に連れ帰ってから2日経った夜のことだった。
「ズラ子…?平気か?」
「…クスリ…」
「え?」
「クスリよこせ!」
そう言ったズラ子が、晋助の上にガバリと覆いかぶさると、首をぐいぐいと締め付けてきた。
「…クスリ…クスリ…クスリはどこだ…」
あまりに強い力で締め上げられ、息が詰まる。
「…おい…ズラ子…しっかりしろ…」
「…クスリ…」
緩まないズラ子の力に、意識が飛びそうになった晋助が、軽く舌打ちすると、ズラ子の下腹を蹴り跳ばした。
2日も寝たきりで、より軽くなったズラ子の身体が、思った以上に勢いをつけて、後方の畳に叩きつけられた。
「…ゲホッ、ゲホッ、ゲホッ」
首をさすって咳き込みながら、ズラ子に目をやると、ふらふらしながら起き上がり「クスリ…」と言いながら、再度こちらに這ってくる。
その肩を掴み、目を合わせるように顔を覗き込んだが、相変わらずとろんとした目のままだ。
「クスリ…」口から出るのは、同じ言葉ばかり。
「おい、しっかりしろ!!」
両頬に手を添えて上を向かせると、その唇に深く口づけた。
「頼む…元のズラ子に戻ってくれ…」
そう願いながら、舌を差し入れたその時だ…
ガキリ…
鋭い痛みに、晋助は思わず顔を離す。
口の端に滲んだ血を、手の甲でぬぐった。
ズラ子が、思いっきり舌に歯を立てたのだ。
手の甲に付いた血を見た途端、晋助にもカチリとスイッチが入る。
「上等だ…身体で思い出させてやるよ」
瞬時にズラ子を組み伏せ、細腰の上に馬乗りになると、寝巻きの腰紐をするりと抜いて、ズラ子の頭上で両手を拘束する。
暴れないようにその手を抑えながら、首筋に舌を這わせると、ズラ子がピクリと身体をよじらせた。
「身体は正直じゃねェか…。テメェが弱いのは、ここだろう?」
そう言って着物を肌蹴けさせ、露わになった胸の突起に舌を這わせ、キツく吸い上げると、「ああああっ」と高い悲鳴を上げたズラ子が腰を浮かせた。
それを見て、晋助がニヤリとする。
いつもは恥ずかしがって、あまり乱れたところは見せようとしないズラ子だが、クスリのせいで理性が飛んで、コントロールがきかないようだった。
「…ヘェ、もしかしたら思わぬ役得ってヤツか」
そうつぶやいた晋助が、胸を愛撫したまま、左手を下腹部に這わせ、ズラ子の足の間のモノをやんわりと揉みしだく。
「あっ…あっ…ああっ!!」
両手を拘束されたまま、頭を激しく振り、長い髪の毛を白い肌に張り付かせたズラ子はヤバイくらいにエロい。
気をよくした晋助が左手の動きを早めると、ズラ子はあっけなく達した。
ぬめりを帯びた左手で秘部の入口を弄び、首筋に舌を這わせながら、右手では胸への執拗な愛撫を続ける。
「ああっ!!」
抑えられない悲鳴を上げなから、仰け反らした白い首にキスを落とすと、左の指をさらに奥深くまで差し込み、中を刺激する。
耐えられないように再び達した細腰をつかむと、もう我慢できずに自身を埋め込んだ。激しく打ち付ける度に、今まで聞いたことがないくらいに、高い悲鳴が上がる。その声にアテられた晋助もすぐに限界を迎えたが、その後も二度、三度と攻め続けた…。
ついには意識を手放したズラ子の横に、大きく息をしながら晋助が倒れ込んだのは、外が白み始めた頃だった。
久々に満ち足りた眠りから、ふと目を覚ますと、美しい黒い瞳に光を宿した見慣れたズラ子の顔が目の前にあった。
晋助の目が細められる。
「…よォ、お目覚めかい?」
「これ、外してくれ」
すかさず、拘束された手首が差し出された。
「あっ、ワリィ」
慌てて紐をほどくと、ひどく跡のついた細い手首をなでて、唇を寄せた。
「大丈夫か?気分とか悪くないか?」
「…腰が痛い」
ズラ子の言葉に、思わず吹き出す。
「そりゃあ、あれだけヤラせてもらったらな」
「貴様、俺の意識がないのをいいことに、無茶苦茶し過ぎだろう」
「仕方ねェだろう、お前サンがなかなか元に戻らないから、ちょいと荒療治だ。お蔭で元に戻ったろう?」
そう言って腕を伸ばし、やっと取り戻した愛しい人を抱き込む。
「もうちょっと、やり方がなかったのか?」
「ん?ヤリ方が足りなかったか?」
「そうではない!」
腕の中でズラ子が赤面した。
その顔を見て、晋助がさらに意地悪そうな笑みを浮かべる。
「お前サン、今まで見たことないくらい乱れて、大声でアンアン言い続けて。お前サンの淫らな本性を満足させてやるためには、薬も悪くねェかもな」
「晋助!!」
「冗談だよ」
そう笑うと、ちょっとムクレた顔をして見せたズラ子を、より強く抱きしめ、髪にキスを落とした。
「無理をさせて、悪かったな。もう二度とあんな思いはゴメンだ。お前サンが元に戻って、本当に良かった…」
腕の中に視線を落とすと、これまで逢った誰より美しく、誰より愛しい人が、今までみたどの顔よりも艶やかに微笑んでいた。
その顎に指を添え、そっと上向かせると、深く、深く口づける。舌の先がちょっとだけ、ピリリと痛んだ…。
「さて、では久々に味噌汁でも作るか…」
そう言って起き上がろうとしたズラ子が、再びペタリと布団に伏した。
「…起き上がれん…」
その様子を見た晋助が声を上げて笑う。
「笑い事ではない。誰のせいだと思ってるんだ」
ズラ子が、恨めしそうな視線でちらりと晋助を見る。
「しょうがねェなァ、じゃあ、今日は俺が作ってやるよ」
「お前もその足では、無理だろう」
「お前サンよりはまともに立てンだろ。まァ、俺が油断したせいで迷惑かけた詫びだ」
ズラ子の額に軽くキスすると、晋助がゆっくり身を起こす。
「いいのか?じゃあ、豆腐とワカメの味噌汁がいい」
「豆腐は買い置きがねェかもしれないぞ。ずっとここにカンヅメで、外に出てねェから」
「じゃあ、じゃあ、タマネギでもいいぞ」
そう嬉しそうに言うズラ子の顔を見て、立ち上がりかけた晋助が、再びズラ子の方に、ずいっと顔を近づける。
「やっぱり、いつものお前サンが一番だ」
そう言って、軽く触れるだけのキスをした。
唇を離した晋助に、ズラ子がコツンと額を合わせる。
「ただいま」
「ああ、おかえり…」
これからも二人が一緒にいることに、理由などいらない。過去もいらない。
またこれからも、こうして穏やかな朝を迎えられたらいい、今はただそう思っていた…。
[終]